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スポーツ神話の崩壊 -スポーツの価値は何か-

はじめまして、スポーツ嫌いのLunRu.さんです。

 

ずっと書きたかった話を書きます。乱文かもしれませんがご容赦ください。

 

はじめに

2021年、東京五輪の開催の是非について国民感情は大きく2つに分かれた。

これは昨年から続いていた新型コロナウイルスの感染拡大を受けたものである。

 

反対派は「感染拡大」を大義名分として肯定派を熾烈に批判した。

その中には主張と矛盾するかのように反対集会を開くものもいたが、根本的には自粛を積極的にしている人も多かったであろう。

 

一方、肯定派の主張はなんであったかが今ひとつわからない。

ある人は「一生に一度の機会だから」と述べ、ある人は「経済活動のため」と言い、ある人は「違約金を払わないようにするため」と主張した。

しかしそれは論理的な主張なのだろうか。

経済のためと主張している人には長期的な視点の欠如がみられる。

外国人を受け入れることで結果的に市中感染が拡大し、開催後の経済活動が困難になることは容易に想像できた。

つまるところ、私が思うに彼らの主張にはその「メモリアル性」といった精神的作用が根底に存在しているのではないだろうか。

 

結果的に、無観客開催という両者の折衷案ともとれる方針を取った。

反対派の懸念点である感染拡大については、確かに開催に伴い新規感染者が増えると言った相関関係は確認されたものの、その因果関係については非自明である。

これは岐阜県が公表した感染事例*1からも伺い知ることが出来る。

お盆や夏季休暇など多く人が出入りする季節ともあり、本当に五輪が契機となったかは疑わしい。

彼らは恐らく五輪などが無くても大人数で会食をしていたであろう。

いわゆる「日本全国酒飲み音頭」状態である。

 

オリンピックが終了した際、肯定派が次のような主張をした。

「反対していた人もなんやかんや楽しんだだろ」

確かに、ORICONの調査*2 によると反対派のうち40%は鞍替えをしている。

彼らは五輪選手の活躍や外国人が日本で競技を楽しんでいることへの喜びなど、情操の面から主張を転換した。

また、懸念していた「感染爆発」が実際には起こらなかったことからも開催が終了したにもかかわらずわざわざ「開催するべきではなかった」と声高に主張する理由が無くなったため鞍替えをしたという面も否定できない。

 

仮に、私自身はこのORICONの調査に答えるのであれば「どちらでもない」とするタイプである。

よりクリティカルに答えるのであれば「開催しなくてもよかった」である。

以前大坂なおみ選手の記事でも述べたが、私はスポーツ観戦を楽しむことの出来ない人間である。

それゆえ、「感染爆発の恐怖を押し切ってまでやる価値のある運動会ではなかったはずだ」という立場を取っている。

 

今回の記事ではこの私の主張をより明確に記すことで、五輪賛成派の人に異なる視点を獲得してもらうことを目的とする。

 

スポーツの宗教性

カトリック教徒にとってローマ教皇 (法王) はキリスト教の根幹にかかわる重要な人物であり、2019年に来日された際には多くの人がその講話を聴きにいくようなこともあった。

しかし、日本人の多くを占める非カトリック教徒にとってローマ教皇は「バチカン市国の偉い人」に過ぎず、なぜその一挙一動が注目されるのか理解が出来ない。

それと同様にスポーツ選手がテレビの向こうで活躍することに対して、私は自分自身の生活に関係ない事象と認識しひどく無関心でいる。

例え高い成績を上げたとしてもそれに対して感動することも誇らしく思うこともない。

 

スポーツ観戦はある種の宗教である。

五輪をありがたく思う精神構造は、神やそれに関連する施設・儀式を重要視する宗教的観念と類似している点が多くある。

選手の活躍に感動し涙をこぼすことは、「カトリックの聖座であるローマ教皇」の講話に感動することと相違が無い。

一生に一度は五輪観戦をしたいという心理的作用は、「イスラム教最大の聖地であるメッカ」に一生に一度は行くべきだという義務に近しいものがある。

そして五輪開催中に毎日のように繰り返された選手の活躍に関する報道は、「日蓮系が盛んに唱える題目」のように異教徒にとっては何の意味も持たなかった。

昔の選手の活躍を何度も紹介するTVは、まるで「神々の活躍を幾度となく語り継ぐ日本書紀古事記」といった神話のようである。

しかも、過去の選手の活躍は映像が残っており、信憑性に欠ける神話よりも余計にたちが悪い。

e-スポーツという言葉に嫌悪感を覚えることもまた、無意識のうちにスポーツを神聖化し不可侵なものとして認識していることの表れであろう。

 

 そもそも「オリンピック」の起源はどこにあっただろうか。

古代オリンピックギリシャ神話のなかでアキレウスが追悼の意味をこめて競技会を行ったことを起源としている。

この点からオリンピックには長い歴史があり、自国で開催することはその歴史の1ページに名を残すことにつながる。

そして19世紀になり、フランスの教育学者が「青少年教育・世界平和」を標榜し近代オリンピック開催を画策した。

つまり、開催することで教育的効果や平和実現への前進が期待できるという主張が存在している。

この主張の前者は今回の五輪開催の際にせめて子どもたちだけでも観戦をさせたいという大会組織委員会の学校連携観戦プログラム*3 に強く表れており、後者は「今回の開催をコロナ克服の象徴にしたい」という小池都知事らの声明に通ずるものが見受けられた。

五輪開催を誘致したいその精神の前提には「ギリシャ神話の権威性」か「スポーツ"信仰"」のどちらか、あるいはその両方が存在している。

そこに経済効果や誉れといった付加価値を加えることにより、今日の五輪崇拝の精神が完成した。

 キリスト教もまた、単なる小さな宗教集団でしかなかったものを「水をワインに変える」「3日後の復活」などの奇跡により価値を高め、旧約聖書新約聖書などの古来より伝わるという権威性を伴って今日に至るまで発達し続けてきた。

 

「宗教」というと多くの日本人は忌避感を抱くかもしれない。

しかし、宗教とは「初詣」「お盆」「クリスマス」といったように生活に深く根差したものであり、生まれてすぐに宗教の中にいた場合にはそれは生活と不可分である。

そして日本人は遅くとも小学校の段階で「スポーツ教」の中に取り込まれている。

だから我々はスポーツ信仰に違和感を覚えることなく今日に至ることが出来ている。

 

 

スポーツは今後どうなっていくべきか

2021年にオリンピックを開催すべきか、という問いに対し開催前の段階では約半数の人が否と答えた。

スポーツの神話性が弱まっている結果と考えてもよいだろう。

この背景には「一生に一度あるかわからないオリンピック」と「感染拡大」を天秤にかけた際に相対的に前者が軽くなっていることがあると考えられる。

 

8月の中旬には新潟県で有観客の音楽フェスが開催となったが、その際に五輪反対派だったアーティストがフェスに協賛しておりひどく叩かれた。

しかし、音楽活動をしている彼は言ってみれば"音楽教徒"であり価値の序列を「フェス」、「感染防止」、「五輪」と並べたにすぎないのだ。

このように考えれば彼の主張は一貫性を欠いたものではなく、ただ自分の持つ価値に従って事物を並べ替えたことに過ぎないのである。

 

創価学会プロパガンダの中には「鬱状態であったが入会し題目を唱えることで救われた」というものがある。

教徒にとって宗教の目的は「救い」である。 *4

しかし、近年になり宗教はその求心力を失いつつある。

CNNの報道により、アメリカでキリスト教徒が微減し無宗教の人々が多く表れ始めた*5 ことがその最たる例と言えるであろう。

これは形而上学に含まれる神学に対して、形而下学である社会科学・自然科学が体系的に発達してきたことに起因すると考えられる。

鬱は薬や心理学などを用いて「救い」が無くとも寛解を目指していくことができるものとなった。

"音楽"や"映画"など多種多様なものが気軽に入手できるようになった現代においては信仰に頼らなくとも感情を吐き出すことが容易になった。

根拠が次第に数を増していく進化論に対し、根拠が増えない創造論はいささか分が悪い。

人間の進化によって生まれた宗教は、それ以上の科学技術の進化によってもはや遺物になりつつある。

 

スポーツ教も例外ではない。

感動の対象や精神の健全な育成は他のもので代替可能である。

それどころかスポーツ選手や運動部の不祥事を通じて、スポーツの健全性に疑問が投げられ始めている。

「親が〇〇教だったので子も〇〇教」であることと、「親の要請でスポーツを教え込まれた子」の相違点はあるのだろうか。

親子教育という名の洗脳がもたらした呪縛ではないのか。

パターナリズムを根拠とした人権侵害ではないのだろうか。

親の宗教を受け継がない子供が現れているように、子どもたちは親や社会から受け継いだスポーツの「呪縛」から解脱されるべきときが来たのではないだろうか。

 

今後、スポーツはどうなっていくべきだろうか。

一言で言うのであれば「政教分離」である。

多くの近代国家で宗教と政治は切り離されるべきだという主張が一般的となっている。

資金や政治権力を集積しようとしプロテスタントの反抗にあったキリスト教や権力を持ち過ぎたゆえに支配を強めていった戦国時代の比叡山延暦寺など、宗教が経済・政治的に強い力を持つことで腐敗が始まる。

今回の五輪でもその絶大な影響力を求めて多くの政治的・経済的疑惑が生じた。

また、中国の選手が十分に学校教育を受けていない可能性があるという報道もなされた。

選手が五輪で成績を挙げることで、他国に対して経済的な豊かさやスポーツ教育の潤沢性といった面での国力のアピールを画策している国家も見受けられる。

 

しかし、今日のスポーツ観戦における本質的な価値は「動員」や「興行」、「娯楽」という点にあるのであって、少なくとも国の威信を託すようなものではないはずだ。

確かに、応援を通して自己を発揮できるという心理的効果も個人レベルでは否定できない。

当然、民間人のレベルで五輪に「希望」や「救い」を求めることは『信教の自由』から認めるべきである。

しかし、国家レベルで"スポーツ振興"に肩入れをし「五輪教・スポーツ教」を崇拝することは腐敗を生むという点においても、またスポーツそのものの価値の限界をおいても大きな過ちでしかない。

 

 それに加えて、一般人のモラルも試されてきている。

初対面の時に話すべきではないトピックとして「政治・宗教・野球」などと言われている。

また、これらのトピックは「野球」はともかくとして面接時に聞くべきではないとも言われている*6

これらは明確な根拠等は無く、それまでの人生経験が価値判断に大きく影響しているという点で共通している。

それこそ「野球」がこの中に含まれている時点で、野球には"個人的なこと"という認識が広く普及していることが伺い知れるが、私はここを「スポーツ」に差し替えるべきであると考える。

そして「日本人なのに東京オリンピックを見ないのか」「日本人選手の活躍に興味が無いのか」という指摘は言語道断である。

これらは憲法上保護されるべき(思想の)自由権に対する侵害に他ならない。

また、私が就職活動をしていた際に聞かれた「日頃からなにかスポーツをしているか」という面接の質問も意味をなさない *7

健全な精神・協同性は日頃の活動や芸術的活動を通しても培うことが可能であるし*8、健康か知りたければ採用試験に体力・身体検査をいれれば十分であろう*9

 

 

「スポーツ」は文化であり、それ以上でもそれ以下でもない。

そこに政治的な意味合いは本来なく、その文化圏の外に位置する人も当然存在する。

そして、あらゆる文化が恒久不変ではないようにスポーツの役割も変化していく。

少なくとも「健康増進」の上に「経済効果」が加わり、社会的意義が大きくなったことは事実である。

だからこそ、"信仰"の中にいる人は自分たちの価値観が普遍的でないことを強く認識するとともに、外にいる人はその"信仰"に対して寛容になるような共生社会を目指すべきではないだろうか。

 

 

 ※ この記事は新型コロナウイルスに対して医学的な指摘を行うことを目的としておりません。また、特定の政党や宗教に対して支持あるいは批判をするために書かれたものではありません。加えて、コロナ禍におけるオリンピック開催の是非については本文導入のために使用したに過ぎず、特定の考えを弾圧するものではありません。

 

 

*1:2021年8月16-18日の感染者行動歴"https://www.pref.gifu.lg.jp/uploaded/attachment/263516.pdf"

*2:

news.livedoor.com

*3:

www.yomiuri.co.jp

*4:宗教の起源に立ち返った場合の目的は「特権階級の支配の正当化」であるが

*5:

www.cnn.co.jp

*6:

就職差別につながるおそれのある不適切な質問の例 | 大阪労働局

*7:スノーボードくらいしかしないので"日頃"には該当せずいいえと答えた。するとそれまで順調そうであった面接官の表情が曇った気がしたし、事実その企業には落ちた

*8:先にも述べたがスポーツ経験者が健全かというと全くの疑問である

*9:実際、パイロットや宇宙飛行士は身体検査の上採用審査を行っているので、その審査に十分な正当性がいえるのであれば実施も問題ないのであろう