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『ネオ東京唱歌』はTOKYO2020へのアンチテーゼなのか

上坂すみれさんのアルバム「NEO PROPAGANDA」発売から1週間以上たってしまいましたが、初めてリード曲の『ネオ東京唱歌』のMVを見たときの衝撃はいまだに忘れられません。

今回はこの『ネオ東京唱歌』の曲、MVについて私見・感想・考察(ってか曲解)を述べたいと思います。

 

 

文責:LunRu

 

内容に入る前に私自身の立場を二点ほど明確にしたいと思います。

一点目は恐らく皆さんが思っている以上に私自身は上坂すみれさんをよく存じ上げないということです。演じている役もアナスタシア(デレマス)や白鷺千聖(バンドリ)ぐらいしか知らない(そもそもアニメを見ないので……)し、その人となりも好きな声優さんの番組のゲストで来て
「やべぇ人もいるもんだな……。」
などと勝手に思っているくらいの、にわか以下です。そのため、今回は上坂さんの人となりからどうこう考えることはなるべくしません。

二点目は私自身が2020年東京五輪に対して抵抗感を持っている、ということです。ただし、日本は「ふがいない国なのでやめとけ」的な見解ではなく、今の進め方をする五輪はただの自傷行為にしか見えない、という点で批判的な立場をとっています。ついでに言えばスポーツも見ないのでスポーツの力だとか、五輪の神話性について懐疑的見解を持っています。今回の考察は決してニュートラルな立場から言及していないことをご了承ください。

 

1. MVの解釈 ~ごちゃまぜの管理社会~

www.youtube.com

こちらが今回の主題となる『ネオ東京唱歌』のMVです。私なりのストーリ理解(ってかネタバレ)します。

栄華を極める未来都市"ネオ東京"

しかしその実態は、特権階級によって作られた人工知能"ビッグ・マザー・マリア"が支配する超管理社会であった。

マリアによって洗脳された労働者たちの手で、今まさに偽りの平和の祭典が開かれようとしている。

 上坂すみれ演じる"ビッグ・マザー・マリア"が街を見下ろしており、その中でスキンヘッドの労働者たちがせわしなく働いている。その中をビラを配って歩くのは上坂すみれ演じる歌劇団の娘"すみれ"。

特権階級の学生"加藤涅男"は格差的な社会のあり方に疑念を抱き始めていた

そんな"涅男"が拾い上げたビラにはこう記されている。

革命的ブロードウェイ

少女歌劇団

「自由と解放」

 「この娘は……!」と何かを感じる涅男。そんな彼が見つけたのは労働者の中でもまれるすみれの姿だった。涅男はすみれの腕をつかみ救い出すことに成功した。「綺麗だ……」とますますすみれに惹かれていく涅男。しかし、これを是としなかったのは他でもないビッグ・マザー・マリアだった。彼女は労働者たちを洗脳して2人を窮地へ追い込む。刀を振り回し労働者の洗脳を解いてゆく涅男とともに逃避行を繰り返す中、二人には恋の感情が生まれていた。

すみれ:歌と踊りで皆の心を救いたい それが私の夢

涅男: なら僕は君を守る

一向に二人を捕らえられない現状に苛立ったビッグ・マザー・マリア自身の手によって、すみれは凶弾に倒れた。最後の力を振り絞り踊るすみれ。それに呼応するように労働者たちの手によって謀反が起こり、ネオ東京は火の海に沈んだ。涅男は冷たくなりゆくすみれに口づけをする。

 

以上が私なりのMVの読み進め方です(あってなるかあってないかは置いといて)。以降はこの解釈にのっとって考察していきます。

 

このMVには様々なモチーフとなっているものが存在しているのはすでに色々と指摘されています。

note.com

 リンク先では簡単なあらすじ程度ですが本記事は内容の核心までついてゆくつもりです。

 

まず、加藤涅男のモデルとしてはやはり「帝都物語」の加藤保憲で間違いないでしょう。偶然の一致とは思えない苗字や刀、帽子の着用や特徴的な眼光などがその根拠と言えるでしょう。また、労働者の洗脳を解いてゆくような超能力性、特権階級所属ながら「自由と解放」というネオ東京の意思に反する行為(加藤保憲は陸軍将校ながら帝都滅亡を画策する *1 )というところも共通していると言えなくもないような気がします。

ただし、その顛末は異なっています。加藤保憲にも特別な感情を抱いている相手はいたものの、最終的には敵という立ち位置です。また、加藤保憲は作中では悪役として描かれているということも違いそうです。

 

 ビッグ・マザー・マリアのモデルは役割と名前については1984ビッグブラザーでいいでしょう。ビッグ・ブラザーは1984の世界観の中で非常に強い権力者の立ち位置です。ただ、MVのシナリオには寄与していないと言っていいでしょう。

1984の主人公はやはり権力者に対抗し始めますが、結局捕えられ洗脳されて、従順な存在になり果てます。

 では、世界観のモデルは?と聞かれたら1927年のドイツのサイレント映画、"Metropolis"が出てくるでしょう。

 

1. MVの解釈 ~すみれはMetropolis(1927)のマリアなのか~

まずは"Metropolis"のネタバレからします。(読まなくてもいいです)

この"Metropolis"という映画は富裕層の住む地上と労働者層の住む地下を交互に転換してゆくことで進んでいきます。物語は大都市の長の息子であるFrederがMariaと出会うところから始まります。姿を消したMariaを探すためFrederは地下に降りていきます。そこで目の当たりにするのが過酷な労働環境でした。Frederはすぐに父親で権力者のFredersenに直談判しますが取り付く島もない様子でした。Frederは労働者に扮してともに労働をしつつMariaを探します。そんな折、Fredersenのもとに労働者たちが地下の深くで結集をしているという密告を受けました。Fredersenが発明家のRotwangを訪ねると紹介されたのはRotwangが愛する者を再現するために作った人造人間でした。一方のFrederもまた、労働者たちが地下深くで集まっていることを知ります。そこをたずねるとMariaが労働者に向けて、労働者と富裕層をつなぐ人物(meditator)の出現を預言します。(ここで失敗例として出てくるのが後述する"バベルの塔"の寓話です。)そしてMariaはFrederこそがmeditatorであると見抜きます。そのやり取りを陰で見ていたのがFredersenとRotwangでした。FredersenはRotwangに先ほどの人造人間をMariaそっくりに改造し、労働者たちがストライキをしないよう誘導するよう命じます。RotwangはMariaを捕らえ、人造人間をMariaに似せて改造します。しかし、Rotwangの真の目的はメトロポリスの崩壊でした。偽Mariaは富裕層にたいし性的魅力で、労働者層には(労働場所である)機械の破壊を説きます。労働者たちは偽Mariaにそそのかされ機械の心臓部の破壊に成功しますが、それは自分たちの子どもたちを危機にさらすことと表裏一体だったのです。だまされた労働者たちは偽Mariaを火あぶりにします。一方で、本物のMariaとFrederは命からがら子どもたちを救出します。この惨事に心を痛めたFredersenは労働者たちと和平を交わすのでした。

 

物語の内容だけでは今回のMVと直結しているようには見えないでしょう。しかし、例えば地上のメトロポリスの風景やFredersenのいる支配者の塔のシルエットがビッグ・マザー・マリアのシルエットに近い点など世界観のモチーフとなっているように見えます。

ではMVのストーリーとの対応はどうでしょうか。労働者によって支配者を倒す、というのは"Metropolis"よりもむしろ作中で失敗例とされている"バベルの塔の伝説"に近いでしょう。

"バベルの塔の伝説"はバベルの塔建築の意図を理解できなかった労働者たちにより支配者が倒され、塔は崩壊してしまう、という話になっています。この話の中では労働者と支配者は「心=Meditator」をもって和平することが重要と説いているようです。

MVの世界観は労働者たちの謀反を許し、ネオ東京は火の海に沈んでいます。そこにビッグ・マザー・マリアやこれを作った支配者層との和平の瞬間は見られません。つまりMVの顛末は崩壊あるいは支配者による再抑圧でしかない、ということでしょう。

つまり"Metropolis"の主張からすればこのMVは失敗例なのです。

この失敗の原因は何なのでしょうか。

 

今回のMVを語るうえでまだ"すみれ"について触れていませんでした。

歌劇団の娘で「自由と解放」を説き、やがて銃殺される……このいかにもいそうなキャラクターのモデルとなる作品は私には見つけられませんでした。

勿論、博識な方ならば元ネタがすぐに思いつくかもしれませんが、今回は"すみれ"=上坂すみれである、と考えます。その根拠として

  • 名前が一致している
  • "すみれ"の所属する歌劇団が「革命的ブロードウェイ」

を挙げます。実際の上坂すみれさんと"すみれ"の対応性については識者にゆだねるとします。

 

ここで、議論の視点を少し変えましょう。今回のMVではビッグ・マザー・テレサとすみれを上坂すみれが兼任しています。この同じ人物が役を兼任するという状況は"Metropolis"のMaria役でも見られます(ドイツの女優Brigitte Helmが兼任 *2 )。そこで、"Metropolis"のMariaとMVの2役の対応を考えます。

  • (本物の)Maria……労働者を勇気づけ、Meditatorの出現を預言⇨すみれ
  • (偽)Maria……支配者Federsenにより製造された。⇨ビッグ・マザー・マリア

ととるのが普通でしょう。しかし、顛末のみを考えると

  • (本物の)Maria……見事に和平を成立させる。⇨???
  • (偽)Maria……都市の崩壊を招く。最後は殺害される⇨すみれ?

と一概には評価しがたいところもあります。(さらに偽Mariaは作中で男を惑わせる大淫婦バビロンとして描かれています*3。ビッグマザーにはそのような描写は見られません。 )すみれを本物のMariaと同一視することはもはや不可能です。

 

本物のMariaとすみれの命運の違いからMV中の革命が失敗に終わった理由を探ることが出来そうです。本物のMariaにはMeditator(中間者)であるFrederの存在が不可欠でした。Frederは支配者であるFredersenに語り掛けるとともに労働者の中に入り込んで活動をします。MVでの対応する人物として涅男がいます。しかし、涅男は魔術により洗脳を解き、すみれにうつつを抜かすばかりで特権階級の立場を利用して支配者との対話を試みる、ということは行いませんでした。

 ここまでの議論の結論としてネオ東京の崩壊、すみれの死因をすべて涅男がFrederでなかったことに押し付けられそうです。中間者の存在こそがネオ東京には必要だったのです。

 

まだ、実は論点が残っています。それは今回の舞台が"偽りの平和の祭典"の直前、ということです。平和の祭典として想起されるものは「オリンピック」他ならないでしょう。この『ネオ東京唱歌』が持つオリンピックとの対応は曲自体をみることで考えていきましょう

 

 

2. 曲について ~「偽・東京五輪音頭」とは~

先に行っておきます。こちらの解釈は非常に無責任です。作詞・作曲を手掛けた志磨遼平さんがどうやらthe dresscodes magazineにて、語られているそうなのですが、金欠のため確認できていません。

志磨遼平(ドレスコーズ) on Twitter: "私の連載コラム『本と音』は話題の新曲 “ピーター・アイヴァース” について。

確認ができたならば本記事は全面改定するかもしれませんがとりあえず、外野からはこう見えました、という感じで書いておきます。

 

 こちらは作詞・作曲を手掛けた志磨遼平さんのツイートです。この曲のテーマには「偽・東京五輪音頭」があるようです。

東京五輪音頭とは1964年の東京オリンピック開催に先駆けてNHKが制作した曲で、さまざまなアーティストにより競作されました。特に人気があったのは大阪万博の「世界の国からこんにちは」で有名な三波春夫のものでした*4

www.youtube.com

この東京五輪音頭ですが2017年に2020年五輪に向けてリメイクされています*5

 

『ネオ東京唱歌』はこの東京五輪音頭に対して「偽」の曲であるというのです。

確かに、歌詞を見ると対応している部分がいくつかあります

「オリンピックの顔と顔 

ソレトトント トトント 顔と顔」

「西の国から 東から

北の空から 南の海も」

「ヨイショ コリャ 若い花

オリンピックの 庭に咲く」

東京五輪音頭/詞: 宮田隆

 ここに対応する歌詞として

「花に嵐の 顔と顔」

「トントントン トカトントン トントントン」

「西の国から 東の国まで

北を南への 大騒ぎ」

「若い心に 穴が裂く」

ネオ東京唱歌/詞:志磨遼平

 と意識していることは明らかです。(特に最後の穴が裂く、は花が咲くに対応した非常に秀逸な歌詞だと思います。)歌詞の中に「メダル」、「万国旗」が登場していることからオリンピックを意識した曲であることは疑いようがないでしょう。さらに、「令和の空に」といっていることから、今回の2020年東京五輪の曲であるといえます。

 

この曲の五輪に対する立場として

「若い心に穴が裂く」「おとなが決めないで……いつも守るふりをして奪うでしょ」「"メダルあげる"とかやめて」「争って競ってやだわ」

と痛烈に批判しています。さらに
「盛り上がれない我らは非国民」
と五輪へのスタンスの問題点を指摘します。そして、
「乙女の恋なら四年は待てぬ」「万国の乙女の……団結のしるし」「メダルはあなたにあげる」
と女性的に五輪に対する答えを見出しています。最後には
「ここは東京 わたしたちのもの」
と本来あるべき、東京の姿を確認する形になっています。

ネオ東京唱歌は五輪に対しておとな達が勝った負けたと騒ぐよりも、乙女である「わたし」(市民)本位であるべきであるという立場をとっていると考えられます。これは政治家により右往左往する東京五輪 *6  への批判としてもっともなものでしょう。

 

2. 曲について ~なぜ唱歌なのか~

ところで、なぜタイトルは「唱歌」なのでしょうか。なぜ「音頭」ではないのでしょうか。ここで唱歌について確認しましょう。

唱歌というのは様々な意味がありますが、恐らくすぐに想像されるのは「かたつむり」「お正月」「茶摘み」といったいくつかの歌でしょう。これらは文科省*7が旧制小学校 *8 での「唱歌」の授業に使用した曲になっています。唱歌の中には「一月一日」のように天皇を意識した曲 *9 もあります。つまり「唱歌」とは体制側の曲、と言えるでしょう *10

 

ネオ東京唱歌のタイトルの言うことはつまり「自分こそが体制側である」という主張です。先の議論から見るに、今の五輪体制はすなわち邪道であり、「わたしたち」が渡す"メダル"こそが正統なものである、という主張と言えるでしょう。

ここで、歌詞の時代性を考えてみます。「唱歌」というタイトルから、戦前・戦中を意識したものだと読み取れます。この時代はご存知の通り強い言論統制、思想弾圧が行われていました。「非国民」とはそういった時代に「国のため」に行動をしなかった人物を迫害する言葉でした。

 

『ネオ東京唱歌』は令和の時代を歌いながらもその本質は「国のために」一丸となることを要求された戦中と変わらないということを指摘していると思われます。

 

※ここで先に前置きをしておきます。私自身は作曲やメロディにかんする知識は全く無いので、ここからは間違っている可能性があります。

 

さらに、唱歌に関してある特徴があります。それがヨナ抜き(長)音階です。これはピアノでいう白鍵のうち「ファ」「シ」を使わない曲のことです。唱歌はこのヨナ抜き音階からできているというものです。このヨナ抜き音階は日本人が聞くと、懐かしいような感覚を受けるようになっています。

このヨナ抜き音階、少し前にちょっとだけ話題になりました。Foorinの歌う「パプリカ」の一部にこの音階が使われているというのです *11 。この曲は「2020応援ソング」とされています *12

ところで、ネオ東京唱歌の歌いだしを聞いた時、「なんか大正だ」と思いませんでしたか?実は歌いだしの「西の国から 東の国まで」には「ファ」と「シ」が使われていません。「北を南への 大騒ぎ」には2音は使われているものの1回ずつにとどまっています。(トントントン……の部分はもはや関係ありません *13 。)

1964年のオリンピックを代表する『東京五輪音頭』と同時に2020年東京五輪の『パプリカ』についても言及するとともに五輪の持つ社会性は戦争のそれに類似していることを指摘していると考えられます。

 

3. まとめ ~ネオ東京唱歌の主張とは~

結論に入る前に一つ忘れてはならないことがあります。それはMVの作り手と作詞・作曲者が異なっているということです *14 。そのため、それぞれで主張していることは全くの同一でないことは注意しなくてはなりません。

曲時代のテーマとして「偽・東京五輪音頭」があります。ここで偽とはだますという意味であることと歌詞の内容から、この曲は単に東京五輪を批判するのではなく、「わたしたち」の(偽)東京五輪創発させていると読み取れるのではないでしょうか。この見解からすれば『ネオ東京唱歌』は"アンチテーゼ(反対命題)"ではなく、体制と「わたしたち」を結び付けた"ジンテーゼ(合)"だといえるのではないでしょうか。

MVの主張として、「体制」と「わたしたち」の和解なしでは崩壊を産む、ということが挙げられます。つまり「わたしたち」だけを全面的に押し出した"アンチテーゼ"のみでは事は為さない、というわけです。

 

結論として、この『ネオ東京唱歌』の批判の対象は今の「政治家主導の五輪」(テーゼ)のみならず、これらを「頭ごなしに否定する我々」(アンチテーゼ)も含んでおり、真に必要なものは「政治家を中心に意図を理解し市民主体で進める五輪」であると主張しているのではないでしょうか。

 

4. 未解決問題

前述したとおり、私自身は上坂すみれさんの人間性には触れてきませんでした。是非"Metropolis"のどちらのMariaが上坂すみれなのか、識者の見解を伺いたいところです。特に私見として他の声優よりも上坂すみれさんはその外見を取りざたされることが多い気がします。これは男たちを狂わせた偽Maria (Die grosse Babylon)との共通性といえるのではないでしょうか。また、MVのなかで「ネオ東京唱歌」を歌っているのはすみれだけでなくビッグ・マザー・マリアも歌っているという点も看過できません。上坂すみれさんが何者なのかを解かなければもう議論のしようがありません。美しい外見をした真のMariaとすみれのなにが違っていたのか、みなさまなりの見解を教えてください。

あと、アルバムの「NEO PROPAGANDA」全体から見た『ネオ東京唱歌』の立ち位置も分析できそうですがもう力尽きたので任せます。

 

www.youtube.com

"Metropolis"はYouTubeで合法的に見ることができますので是非見てみてください。

 

*1:ただし、その動機については少なくとも映画版では言及がないようです。マクガフィンなのか?

*2:特に当時の映画評論ではこの女優の演技が評価されていました

*3:個人的なイメージではどちらかと言えばマグダラのマリアかと思っていました。ただ、宗教上の理由かそのような言及はされず、かつ同じような指摘はあまり見られないので私の妄想なのでしょう

*4:20世紀少年の「ハロハロ音頭」(春波夫)のモデルですね

*5:こういう節操のなさが五輪嫌い発症のもとの一つなんですがまあそれは置いといて

*6:辻田真佐憲「多くの国民が無関心だった? 1964年のオリンピックはこんなにもダメだった」、ジセダイ、"https://ji-sedai.jp/series/research/061.html"、2016年(2020年2月5日、閲覧。)

*7:現在の文部科学省

*8:つまり時代としては戦前

*9:2番の歌詞「きみがみがげ」が天皇の御姿と解釈が可能

*10:どうやら「鉄道唱歌」は違いらしいっすよ。念のため。

*11:不自然にレコ大とった本当もううさん臭くて大嫌い

*12:2020が五輪を意味しているかという議論は脇に置いておきます。

*13:サビは分析できてません。出来次第加筆するつもり(するとは言っていない)

*14:勿論、関与していないとは言い切れませんが